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お問合わせ
labo@pan-records.com
Pan Records

戦前ブルース音源研究所

Pre War Blues Laboratories

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  【Wisconsin Chair Company】

 
ウィスコンシン州 グラフトン 

この小さくて 静かな町がブルースの歴史にとても重要な役割を果たした町であると
言われてすぐに連想できるだろうか。

ミシシッピ・デルタやメンフィス、いやブルースといえばシカゴを連想するかも知れません。 
黒人音楽の記録はRace Recordsと呼ばれるカテゴリーとして1920年頃マーケットに登場しました。

ウィスコンシン・チェアー・カンパニーの多くの事業の一つにレコード事業があり 
「The New York Recording Laboratories」という会社として
Paramount Label」に代表されるレコードを多数販売しておりました。

NYRL(New York Recording Laboratories)の本社は、グラフトンに程近いポートワシントンにありました。
グラフトンはチェアーカンパニーの工場所在地で、
その大きな建物の中で多数の事業商材の生産をしておりその中にレコード盤のプレス工場を持っておりました。

このグラフトンからレコードは全国へと出荷されていたのです。

 

忘れてならないのは、同工場敷地内に設けられた録音スタジオによる自社の録音事業の開始です
1929年の事であると伝えられてます。

このグラフトンに音楽史に名を連ねるアーティスト達が続々と訪れたのです。

おそらく一番初めにやって来たアーティストの一人に Papa Charlie Jackson がおりました。

彼は1929年9月にマトリックス番号A-1_2 " Tain't Wht You Do But How You Do It"を録音しました。


(A-のマトリックスはL-に置き換えて
考えてもいいかも知れませんがミルウォーキーでの録音であったとも想像されてます、
その後はグラフトン録音L-マトリックスに続きます)   

 McKENZIE & CRUMP (L-6) ,GEORGE THOMAS(L-17),と録音は進み、
L-23にはBlind Blake,  そしてCharlie Spand(L-34),  
Charley Patton(L-37)へと続いていくのです。


 工場のあった場所 現在は僅かにその痕跡(残骸)を残すのみとなってますが、
そこにはParamountの軌跡として案内板が接地されております。



1930年代中期には廃業としたレコード事業の遺産(在庫等)が残されていたらしいのですが、
他社レコード会社へ一部貸し出しや権利譲渡などもしながら
徐々にレコード産業から撤廃したようです。

その後残されたメタルマスターやレコードの在庫、フライヤーなどの資料はどうなったのだろうか?

資料は 本社があったポートワシントンで保管されていたとの話もあり、また一部は関係者の自宅へ、
また一部はレコードファクトリーにそのまま・・

1940年代には在庫・不要なレコードは工場に面したミルウォーキー川へフリスビーの様に
投げ込まれたという噂話があります。

その俄かに信じがたい話しは本当であったと現地で聞くことが出来ました。(Ray Last談) 

それがどの程度の規模の話かはわかりませんが信じられないような噂話は嘘ではなかったらしい。
また彼(Ray)の父親が所属していたギターオーケストラの写真もご提供頂く事ができました(1930s)

その写真にはRagal社製のDOBROギターを持つ
男女30名ほどのビックバンド?の姿が写っておりました。

ちょうど彼の父親の年代がタイムリーであり多くはグラフトンの工場で働いていたことでしょう。

  

  【Grafton Hotel】

サンハウスの証言によれば1930年 チャーリー・パットン、ウィリー・ブラウン、ルィーズ・ジョンソン等と
録音の為グラフトンを訪れ、グラフトンホテルに宿泊したと伝えられてます。

その証言が本当だとすると彼等が宿泊したホテルを今も見る事ができます。

グラフトンホテルは営業はしていないものの 未だにその場に健在であります。

黒人ミュージシャンはグラフトンに近いミルウォーキーに滞在し、録音スタジオに送り迎えされたという話もあります
そしてスタジオへ上がるエレベーターは従業員用ではなく荷物の搬出入用を使用させられたとも語られてます。
 
グラフトンでの僅か3~4年間の録音事業の中では色々なケースがあったのだと想像してます。


 
ブラインド・ブレイクも宿泊したかも知れない。 

このホテルに宿泊したサン・ハウスによれば10曲ほどの録音で40ドルを手にしたらしい、
1曲4ドルってところでしょうか。

1930年南部の農場で一日いくらもらえたのかを想像するとリッチな話である。
ちなみにチャーリー・パットンは一曲15ドルの計算になりますねぇ~。

そしてチャーリーは、ウィリー・ブラウンやサン・ハウス等のサンドイッチやタバコ代に
100ドルをもらったそうな・・・ 本当なのだろうか・・・・・。

いずれにしても 1930年 今から80年ほど前 このグラフトン・ホテルに彼らは宿泊した。
看板スターであったブラインド・ブレイクも 彼らが宿泊出来たのであれば間違いなく
このホテルに宿泊したことがあるはずだ。

 そんな想像をして見ると感慨深い想いが込み上げてくるのです。

彼らは このホテルに向かって左側 レコードファクトリーまでまっすぐ伸びる12Aveを、
てくてくと歩いて行ったのだろう。。。。

録音スタジオまでは徒歩で10分くらいでしょうか。下の写真は2008年9月の写真ですが
屋根の上のとんがり帽子は既に在りませんでした。 

よくご覧ください、一階の下の茶色い部分に四角い窓があります、実はそれは地下室の光の取り込み窓です。
このホテルには地下一階が存在しておりそこはバーとなっていたようです。

もしかしたら彼らはここで酒でも飲んだのでしょう、いやギターでも弾いたのかもしれない。

このグラフトン・ホテルを背にしてブラインド・ブレイクの記念式典で演奏をして来ました。 
壇上に駆け上がり、来賓の方々へ正坐をし
 膝の前に両手の正拳をつき深く頭を下げお辞儀をしました・・・・・ 
 
 壇上から降りて腰かけてギターを抱える
  
背中には80年前ブレイク達も宿泊したであろうグラフトンホテル。
 神頼みをしない私は 「ブレイク 俺に力をくれ・・・・・」と 心の中で念じました。
そしてゆっくり目を閉じ演奏を始めました・・・・・・ 

そう 盲目のブレイクと同じ条件で。  

 背後のグラフトン・ホテルから感じる ブラインド・ブレイクの魂・・・・ 
Blind Arthur's Breakdown ・・・・・Wabash Rag・・・・・

 80年後に海の向こうから来た日本人がここでブレイクを弾く。
自分がやってきた音楽、大好きだった音楽、憧れのブラインド・ブレイク・・・・

 夢のようです・・・・  
         

ブレイクだけではない チャーリー・パットンやウィリー・ブラウンもこの場所にいた。
きっとあなたもこの場所へ降り立ったとしたら身震いする感動があるでしょう。

そんな 幸せを感じさせてくれる場所・建物   それが グラフトン・ホテルです。
 

 
  【Paramount Restaurant】


 グラフトン・ホテルの向かいにある建物こそが謎であります。
 ホテルであった時期もありますが刑務所だったこともあり居酒屋、裁判所、レストランであったりと・・・
時期によりその役割が全く異なるようです

 
この写真はセントラルホテルとして経営されていた頃の写真ですが時期の詳細は不明です。
ですがこの建物もそのまま健在であります。

ブルースマン達が訪れた1929から僅か3~4年間の期間この建物は何を営んでいたのでしょうか?

サンハウスの証言の通り、ホテルの向かいにブラインド・レモン・ジェファーソン
ブラインド・ブレイクと勘違いしてます)が宿泊していた(見かけた?)

もしくは同じ日に滞在していたと認識する情報を得た内容が事実であれば、
この建物にブラインド・ブレイクは宿泊しておりここは宿泊施設だったのかも知れない。
まさか刑務所の時期じゃないでしょう、洒落になりませんよ。  

向かいに宿泊していた・・・ ん~  サン・ハウス 本当かなぁ・・・    
 それとも 道の反対側かなぁ? ブレイク飲んでたんじゃない?

本当に目撃していたとすれば、その後写真で確認すれば微かな記憶でも、
ブレイクとレモンの区別はつくでしょう・・・

すでに有名な看板スターだったんだし、 おそらくスタッフか誰かに 
「パラマウント・スターの盲目ギターリストも滞在しているよ」的な話しを聞いたのだと想像してます。
 
いずれにしても、1930年夏と思われるサン・ハウスのセッションの時期には 
ブラインド・レモン・ジェファーソン死亡しておりました(没1929年12月)

 すぐ後のセッションを待っていたブラインド・ブレイクの噂を聞いたのでしょう。

慣れない初録音に しくじって時間をかけてると、
次には看板スターの盲目ギター弾きがお待ちかねだぞって感じでしょうか?
もしかして チャーリー親分からの はっぱ だったりして(笑)

 写真は2008年9月に撮影したものです煙突は無くなっておりますが窓などの外観には大きな
変化もなくそのままの形を残しております。
この時点ではパラマウント・レストランという看板になっておりましたが営業はしていなかったように思います。

現在(2010,10)はParamount Grille & Bakehouseとなっている。
 

  【Piano Road】


この建物(Paramount Grille & Bakehouse)とGrafton Hotelの間の道は、Pianoの鍵盤を模った
ピアノロードと呼ばれる遊歩道が作られてます。

そのピアノロードの黒鍵の部分の石には、このグラフトンに訪れたParamount Starの名前
一人また一人と刻まれてゆくのです。

HENRY " THE MULE" TOWNSEND" , CHARLEY PATTON , MA RAINEY , SON HOUSE ,
そしてBLIND BLAKE.... 

 ピアノロードを歩いていると どこからかブルースハープの音が聴こえてくる・・・・
「あぁ。。。 あのスピーカーから流れてくるのかぁ・・・ 」  

とても静かな町に聴こえてくるブルース・・・ ゆったりと時間が流れる町です。
「お 何故だか サニー・テリーのハーモニカだ。。。」

ピアノロードにあるベンチに自分の名前を入れる事もできます(寄付ですね) 
もしくは道に敷き詰められるレンガも買う事が出来ます。

          
この素敵な鍵盤いっぱいに アーティストの名前がぎっしり彫られるように寄付をお願いします。

名前が刻まれていく彼等にとっては、大仕事(録音)の為に訪れた町・・・
プレスされたレコードはこの町からアメリカ中に広まっていきました。

ブレイクもまさか自分の名前が、80年後にこの録音に訪れた町の石に
刻まれようとは想像もしていなかったでしょうね。
 
この鍵盤には まるで彼らの奏でた音が いや魂が一音 一音 刻まれているかのような・・・・・
私は 石に宿るブレイクの魂を感じられるかも知れないと、そっと隣に横たわりました。

 


そっと目を 開くと真っ青な空が見えます。

この空は 80年前の空と繋がっているんだなぁ・・・・


 
そして70年も経ったある日 当時の貴重な資料が突然出土した事実がある・・・・   

僅かではあるが当時の記憶を持った人も健在であるしどこかにブルースの歴史の欠片
落ちているのではないかとワクワクさせる町、

レジェンド達が確実にこの場所に生きていた事を感じる、、、、、

そんな町がグラフトンです。
 


  【Post Office】


グラフトンの郵便局は1912年に建てられた建物がそのまま屋根に年号を刻んだまま存在している。

この郵便局は正にグラフトン・ホテルの真向かいの位置に建ってます。

ここから全国のディーラーへとプレスされたレコードは発送されて行ったのでしょう。
現在は郵便局としては使われておりませんがこの年号の冠を見上げていると遠い昔の情景が浮かんできます。



「A RECORD DAY - GRAFTON POST OFFICE   GRAFTON Wis.」とメモ書きが添えてある写真・・・・ 
それにしても もう少しきちんと積めないものだろうか、まったく危なっかしい・・・笑

ウィリー・ブラウンのレコードとか 落としていったのかも知れない。。。。  
見つからない理由はそれか?

実は すぐ近くに駅があるのです、多くは列車で運ばれたと思います。
 
駅の場所は2か所あって一つは現在はテニスコートになってました。

そこからレコードファクトリーまでは 5分も掛からない。

 ここに彼らは降り立ったのかもしれない 
誰かが迎えに来ていたのだろうか?

ミルウォーキーから車で送り迎えされていたとの話しもあります。

確かにその通りの事実もあるでしょう、人目に付かない暗い時間に連れてきて暗い時間に送り返す。
しかし、複数人のミュージシャンを車で送迎するには無理のある話、そこまで隠す必要があるのか?

 サン・ハウスの証言はハッタリなのか?

いやいや、きっとシカゴからミルウォーキーを通り過ぎてグラフトンに来たに違いない。 
時には通り過ぎて本社のあるポートワシントンまで行ったかもしれない。

この写真はレコードを郵便局から出荷する写真、いや単に郵便局の前を通過するだけの写真? 
いやレコードの様な重くて破損しやすい荷物は
下の方にあるのだろう。 

この郵便局から出荷される 魂の音を運ぶ写真・・・・・。
 

  【Alfred Schultz Home】

 アルフレッド・シュルツは、NYRL(New York Recording Laboratories)のチーフ・レコーディング・エンジニアと
プレス・プラントの工場主任を任されてました。

ウォルター・クロップと共にエンジニアとしてとても重要な仕事をしておりました。

その一つに録音テイクの選択があります。
通常3テイクの録音をしていたテイクを聴き良いテイクを選びます。

時には自宅に持ち帰り選択することもあったようです、そしてカップリングが組まれてレコード盤
として製品化されるのです。

また録音機材や方法についても重要な証言も伝えられてます。
 
パワーステーションは工場内にありました、電力は発電所から送られてくるのではなく
自社で補えたようです。

一番に行ったのは アンプのパネルを2枚備え付けました。
相当大きいアンプです。

グラフトンはおそらくエレクトリック録音の最先端技術で組まれたと検証してます。

ギターなどの生音を、単に一つのマイクロフォンで集音したのではないと思われます、
この検証は我々独自の検証内容にもつながります。

どこかの記事で録音スタジオの検証をご紹介したいと思います。

 
私がグラフトン滞在中に聞いた彼にまつわる話で感動したエピソードの一つがあります。

このアルフレッド・シュルツ邸の裏はミルウォーキー川でありそこで彼は釣りをして過すことがあるのですが、
滞在中のアーティスト達も彼の釣竿を借りて釣りをしたらしいのです。

彼はすでに他界してしまいましたが工場から僅か2件隣に今もその家を見ることが出来ます。 

Charley Patton, Nehemian Curtis”Skip”James, Eddie James “ Son” House, Blind Blake,
The Missiissppi Sheiks, Tommy Johnson, Willie Brown, Henry Townsend, Meade Lux Lewis,
King Solomon Hill ,Famous Blue Jay Singers of Birmingham, Louise Johnson, Delta Big Four, Jabo Williams

まだまだ多くのアーティストがグラフトンで録音しました。

誰と誰が釣りしてたんだろうか?


  【アルフレッド邸裏のミルウォーキー川】

釣りをした川がこちらです。

録音の為に来たのに余裕だなぁと思ったものですが、待ち時間は数日の時もあったかも知れない。

おそらく録音は 一日では到底終わらず 時間を押してしまう事も多かったはずです。
 
マトリックス番号から一日で録音したと思われている録音は確固たる証拠があるのではなく想像でしかないのです。 
また、録音期日は最近の研究により徐徐に新たな説が確立しつつあります。

通常3テイクの録音をしていたというアルフレッドですが、シカゴのマーシュなどの記録には
テイク6などが製品として選択されているケースもあるのですから、
時にはテイク数は倍くらいになる事もあったと思います。 


1930年の録音の期日大幅に改正必要とします。

春の録音は おそらく夏の終わりの録音となります。

こちらのレコードに関する情報は別の記事でいずれご紹介したいと思います。
スタジオは録音だけでなく練習スタジオとして使用されることもありました。

グラフトンのスタジオ機材についての証言や情報も少しですが知ることが
出来ておりますがこちらも別のトピックにてご紹介したいです。
 
マ・レイニーの様に録音を残さななかったのにグラフトンを訪れたという事実もあります。
彼の娘 Janet Schultz Erickson はマ・レイニーの膝の上に座って団欒を過したと言います、
 
その時のマ・レイニーは黒いドレスに金色の靴を履いていたと伝えられており
私はその話を知った時に、
金ピカのシューズを履いてこの町を歩く、恰幅の良いおばさんの姿を想像しました。


ゴールド・シューズってところが女王の貫禄ですね。 
マ・レイニーは1928年暮れの録音が最後とされています。

グラフトンで唄わなかったのだろうか?何の目的でグラフトンに来たのだろう? 

*追記情報:グラフトンで行われたフェスにマ・レイニーが来たと伝えられています。
 


  【Michael Photography】

1872年"Joseph Gramer"によって創業された写真館は、
John Gramer - Edward Laabs - Walter Burhop - Michael Matthies と、
このグラフトンに5代続く

老舗写真館である。というよりも唯一の写真館であった時期は長かったのだと思います。

私達ブルース・ジャズファンにとって最も興味のある時代は
 4代目のウォルター氏(1926-1975)の時代であろう。

この町に多くのミュージシャン達がやって来た時期である。
彼等はレコーディングのギャラで記念写真の一枚も撮らなかったのだろうか?

パラマウント(NYRL) は宣伝用の写真を撮らせなかったのだろうか?

いや演奏と同時に写真を撮ってもおかしくない。

サンハウス等が宿泊したというグラフトン・ホテルからは徒歩で僅か数分の場所にあります。

そのような立地条件や創業期間、さらにはこのグラフトンでチャーリー・パットンの
幻の全身写真が奇跡的に発見された事実も考慮すると、
この町の写真館で撮影したのではないか?

という想像があるのです。

私が実際に訪れた時はブラインド・ブレイクの写真もこの写真館で撮影された可能性があると
聞かされておりましたからこれは重要な写真館です。

 
写真はお客さんのモノですが、ネガはカメラマン(写真館)に権利があり多くのネガは保管されている。
もしかしたらブルースマンが写っているネガが残っているかも知れません!

1920年代の写真のネガは グラス・ネガティブと呼ばれるガラス板のネガです。

このグラス・ネガティブは非常に保存性がよく手で触れても大丈夫ですし今でもそのネガとしての
情報をしっかり保持しております。

私が訪れる前に数人がグラス・ネガティブを見せて欲しいと来た事が
あったと5代目オーナーのマイケル氏は言いました。
      
ほとんど現地の人でも見た事が無いという マイケル・フォトグラフィーのグラス・ネガティブの
多くを見せてもらうことが出来ました。

一緒に私の取材でスタジオ内に居合わせた地元新聞記者(ニュースグラフィック)や
現地のブルースリサーチャーも大喜びでしたし驚きました。

ネガは1920年代を思われるグラフトンの姿がハッキリと見ることが出来たのです。

レコードファクトリー、シューズファクトリー内の写真、凍るミルウォーキー川、写真館で撮影した人々の姿・・・・
 残念ながらブルースマンのネガは在りませんでした。
 
1920年代後半から1930年代にはグラス・ネガティブでなく硝酸ネガという
モノに切り替わっていたらしくそのネガは1975年からのオーナーとなるマイケル氏に引き継がれる時に、
前のオーナーのウォルター氏が店の裏で燃やしてしまったと言います。

すると一番知りたい残っていて欲しい時代のネガは焼却処分されているという事になります。
この話は衝撃的で残念な事実です。

しかし、私はマイケル氏との出会いにより掛け替えのない友情を手に入れました。
彼は私にこのように言いました「グラスネガティブはもっとたくさんある」 

おそらくそれ以前に確認に来たリサーチャーに見せていないネガあるに違いないと私は悟りました。
 
私達はマイケル氏の家に招待を受けてとても有意義な時間を過ごし、その夜再びマイケル氏と共に
スタジオで写真やグラス・ネガティブを確めました。
 

 【マイケルとの約束】


 私はグラフトンを発つ時に彼と約束をしました。

マイケルは自分の店に私達が欲しがっている写真のネガは無いかも知れないと感じていたかも知れません。

しかし彼自身も全てを確認していないグラス・ネガティブをデジタル化して、フォトアルバムに
する事が自分の仕事だと言ってました。 

彼は自転車が大好きで彼の自転車はシュイン製(シカゴの自転車メーカー)の
パラマウントを乗っていました(さすがです) 

私との約束は、もしもブルースマンの写真が発見されたならば必ず一番に連絡をくれること、
そしたら身長2メートルもある彼に合わせたチタニュウム素材で
作った特注ロード・フレームを作って持って行くから 交換ね!・・・と。

 
       
 
 2008年9月の約束です。 
その彼(マイケル)に悪性のガンが発見され入院したというショッキングな
一報が入ったのは僅か半年後の事でした。

私はとてもショックでした、どうにか良くなって欲しい。 
現地の友人からの連絡は本当に驚きました。

僅か半年前には、2人の大人でやっとで動くほどの公園にある大きいテーブルを、
撮影に邪魔だからと1人でホイホイと動かす、怪力振り。
私は彼をはげますために、動画を制作しました。

美しい風景を見る事が出来ます、この段階ではチャーリー・パットンの写真は
グラフトンで撮影されたという認識でした。

世界的なブルースリサーチャーであるジョン・テフテラー氏も チャーリーの写真が発見された
このグラフトンで撮影された可能性が高いと認識しておりました。

元気になって欲しい。 きっと最先端医療で元気に帰ってくるだろう。 

動画には、写真館の設立当時の未公開写真、そして私に見せてくれたグラスネガティブ、
当時のアーティストも見た景色があります。
 
 
 
  BGMには、ブレイクも参加したセッションからホームタウンスキッフル、
そしてこのグラフトンで2曲の録音が発見されているウィリー・ブラウンの
フューチャー・ブルースの研究所修正音源を使っております。

 遠い昔の ウィリー・ブラウンの歌声を聴いて 当時のこの町を想像して下さい。 

この歌声の迫力、ジンクスと呼ばれるギターに感動したのは 若き日のロバート・ジョンソンなのです。
 {youtube}u9MugPHgw4g{/youtube}
この動画を見たマイケル本人から連絡がきました。

 とても喜んでくれました。

 お~マイケル元気になったんだね!

彼からの連絡は 本当にうれしかった・・・ このまま良くなって元気に仕事をして欲しい。。。
 
しかし、その半年後にマイケル・マシューズは他界されました(享年62歳)

なんだよ マイケル 俺達の約束はどうするんだよ!  

まだやり残したことがあるじゃないかぁ!  

こんなに哀しく、悔しく、何も出来ないもどかしい気持ちなんて まっぴらだ!
ブレイクが撮ったかも知れない写真館でプロモーション写真とウェディング写真を撮ってもらう。。。

私達の写真は私達が帰国した後も お店のウィンドーに飾ってくれてました・・・。

そして 彼が亡くなってしまった後にも・・・・・ 
お店のウィンドーには 私達の写真が飾れたままであると友人から聞きました。 
 
 
* マイケル・マシューズとの友情・信頼、お互いへの興味は実は写真の話だけではなく
、彼と私達を取り巻く人々との交友も深く関係している。

彼の死への悲しみ。。マイケルの訃報を聞き、どうする事も出来ない、
遠く離れて暮らす私には何も出来なかった

しかし、私は演奏家として演奏をし続ける事、音楽を通しての活動で恩返しと
贈る言葉としたいと思いました。
 
 「くそったれ!  ちきしょう ・・・・・。  
ギターかぁ・・・  これしかないなぁ・・・・・ 
ギター弾くか・・・・・・ 」  

Youtubeでも誰も演奏していない Lonnie JohnsonのPlaying With The Strings を
涙を堪えながら演奏しました。

練習はほぼ丸2日を要しました。 
 「 マイケル 俺のギターが聴こえるか・・・・・  」 
 
{youtube}u_m88iFqWYc{/youtube}
よかった マイケルに出逢えて・・・・ 今度会う時は あの世だな。 
 その前に悪魔(ブルース)の正体を暴かせてくれよ。

 
世界的なブルースリサーチャー達、彼等に見せたのは100枚程度の
グラス・ネガティブ、私が見たのもその程度のネガでした。 

しかし、マイケルは私にネガは1000枚あると言った。
 
色んな思いがある 「ブルースが私達を一つの線上に繋いで行く」 

そんな町が グラフトン です。



皆さんもいつか訪れてみて下さい。            
           


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